
歴史上の出来事が起こった場所を訪れるのが好きです。
2016年の大河ドラマ『真田丸』ゆかりの地めぐりを2回。大阪と長野県上田市でやりました。
実は夫が大の歴史好きで、なんとなーく日常会話の中で歴史にまつわる豆知識が入り込むことがあるのですね。夫は司馬遼太郎の本が大好きらしい。(私は難しくて読めませんが・・・(゚_゚i)タラー・・・)
司馬遼太郎の本を繰り返し読む人に憧れはするものの、私にはちょっと無理のようで何度も挫折しております、はい…。
そんなわけでもうすっかりと諦めました!(笑)
日々の会話からちょっとずつ豆知識を仕入れることで満足しています。ちなみに今回の記事はほぼ夫からの受け売り。
受け売りを自分の知識のように語りますよ~(*^-°)v オッケェー♪

今日は岡山県の備中高松城のご紹介です。
たまたま瀬戸大橋の近くに行く機会があったんです。
高速のPAに置いてあった観光パンフレットを眺めていたら、そこから少し行った場所に「備中高松城」があることに気付いたのです。車を飛ばせば30分ほどの距離。せっかくだからと足を伸ばしました。
歴史の好きな人なら「備中高松城の水攻め」という天下の奇策のことをよく御存じでしょう。
私は2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』を(←岡田くん目当て)観て、初めてこの出来事を知りました。黒田官兵衛もドラマで知りましたヾ(・・;)ォィォィ
(そんなに有名な人なんですか?きっと有名なんですよね…。)
まるでウソのようなドラマチックな奇策に度肝を抜かれましたオオーw(*゚o゚*)w
「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと!
当時の人も「まさか!」という感じだったんじゃないでしょうか。
私も夫から聞いたときはあまりに奇想天外で途方もない策なので「ははぁ、騙そうとしているな!」と思ったのですが、どうやら本当のようです(;^_^A アセアセ・・・
堤を築いて川を堰き止め、城を水の中に孤立させてしまう。
そんなとんでもない奇策です。
備中高松城の戦いとは。
備中高松城の水攻めが行われたのは1582年。
当時織田信長の家臣であった羽柴秀吉と中国地方を治める毛利氏との間で戦いが続いていて(いわゆる中国攻め)、備中・備前の国境付近で激しい攻防が繰り広げられていました。で、毛利軍の最後の砦とも言える重要な城が備中高松城でした。
この城を守っていたのが清水宗治。ひじょうに忠義に厚く勇猛果敢な武将。
羽柴方の調略には応じず、降伏する気配は一切ありません。
さらに地の利は完全に備中高松城にありました。というのも備中高松城はいわゆる「沼城」と呼ばれる湿地帯にある城で、足元が悪く、羽柴軍は3万の大軍で攻めてもこの備中高松城を落とすことがなかなかできずにいたのです。しかも毛利の援軍が迫ってきている…。
で、ここで『軍師官兵衛』の主役になった名軍師・黒田官兵衛が策を講じます。
近くに流れる足守川を、堤を築いて堰き止め、川の流れを変えてこの水を引き入れることで備中高松城を水の中に孤立させてしまおうというもの。
堤の長さは全長約3キロ、高さは7メートルほどもあったと伝わりますが、その巨大な堤を、秀吉軍はわずか12日間で完成させたとも言われます。惜しみなくお金を使い近隣から人足を集めたそうです。
水の中に孤立してしまった備中高松城を前にして、毛利軍の吉川元春と小早川隆景ら世に知られた名将を以てしても、なすすべがなかったそうです。
これが「備中高松城水攻め」です。
備中高松城とその周辺の地理、そして梅雨という季節などの要素を勘案して講じられた秘策中の秘策でした。そんな備中高松城水攻めゆかりを訪れてみました。
備中高松城址公園
備中高松城自体はすでになく、城があった場所は現在「高松城址公園」として整備されています。清水宗治の首塚や石碑などがありました。

▼水攻めの図。水の中に浮いているように見えるのが備中高松城です。

▼こちらは清水宗治の辞世の句です。

▼「沼城」であったという当時を忍ばせるようにハスの池が広がっていました。

櫓風の建物が資料館にもなっており、水攻めを再現した模型やイメージ映像などが見られます。
私がここを訪れたのはすでにドラマの放映は終わっていましたので落ち着いていましたが、放送時は数万人もの人がこの地を訪れたそうです。資料館の入場料は無料。
アクセス
最寄駅はJR吉備線備中高松駅。
但し徒歩で行くのはかなり距離がありますので、車の利用をおすすめします。
車の場合は、岡山自動車道岡山総社ICより国道180号線を10~15分程度。
駐車場あり。
高松城水攻め史跡公園
ここは秀吉が実際に堤を築いた場所。
わずかにその片鱗が残っており、今は史跡公園として整備されています。

▼築堤盛土跡。

ここは実際に堤があった場所。
秀吉は近隣の村人たちに破格の報酬を払うことで多くの人々を集め、たった12日間で巨大な堤を作りました。
必要なときには「惜しむことなくお金を使う」というのが秀吉のやり方だったそうです。
▼築堤跡を深く掘り起こした断面。

堤の一番下の土台の部分になります。当時の留め杭が今も残っています。
湿地帯であったため、土台をしっかりとさせる必要がありました。
▼今は田園地帯が広がります。

秀吉が備中高松城攻めを行っているその時、京都の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれます(本能寺の変)。
知らせを聞いた秀吉の軍勢はここから一気に京へ駆け戻ることになります。世にいう「中国大返し」です。(という、ほとんど受け売りでお送りいたしました。)
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